あらすじ
むかしむかし、海辺の小さな村に、太郎という心優しい若者が暮らしていました。
ある日、浜辺で子どもたちにいじめられていた亀を見つけた太郎は、亀を助けて海へ返してあげます。
数日後、太郎の前に大きな亀が現れ、お礼に海の底にある竜宮へ案内してくれることになりました。
色とりどりの魚、美しい宮殿、豪華なごちそう。
太郎は竜宮で夢のような時間を過ごします。
ところが、故郷が恋しくなって村へ帰ってみると、そこには太郎の知っている人も家も残っていませんでした。
竜宮でのわずかな時間の間に、人間の世界では長い年月が流れていたのです。
そして太郎の手には、竜宮の王様から渡された「決して開けてはいけない」という不思議な箱が残されていました。
海の底の不思議な世界と、時の流れを描いた昔話です。
本文
むかしむかし、海の近くの小さな村に、太郎という若者が住んでいました。
太郎は決して豊かな暮らしをしていたわけではありません。
毎日海へ出たり、村の仕事を手伝ったりしながら、つつましく暮らしていました。
けれど、太郎はとても心の優しい若者でした。
困っている人がいれば声をかけ、弱った生き物を見つければ放っておくことができません。
村の人たちも、
「太郎は本当に優しい若者だ。」
と話していました。
ある日のことです。
太郎が海辺を歩いていると、遠くから子どもたちの声が聞こえてきました。
「ほら、逃げるぞ!」
「こっちへ来た!」
何人かの子どもたちが、砂浜に集まっています。
太郎が近づいてみると、その真ん中には一匹の亀がいました。
子どもたちは亀を棒でつついたり、ひっくり返したりして遊んでいたのです。
「やめなさい。」
太郎が声をかけました。
子どもたちは振り返ります。
「生き物をいじめてはいけないよ。」
「でも、遊んでいただけだよ。」
「亀にとっては怖いことだろう。」
太郎はそっと亀を抱き上げました。
そして波打ち際まで歩いていきます。
「もう大丈夫だよ。」
太郎は亀を海へ放してあげました。
ざざーん。
波が寄せてきます。
亀はゆっくりと海の中へ入っていきました。
けれど、すぐには泳ぎ去りません。
一度、太郎の方を振り返りました。
まるで、
「ありがとう。」
と言っているようでした。
やがて亀は波の向こうへ姿を消しました。
太郎もそれ以上気にすることなく、家へ帰っていきました。
それから数日後のことです。
太郎が浜辺に立って海を眺めていると――。
ざぶん。
沖の方から、何かがこちらへ近づいてきました。
「なんだろう?」
ざぶん。
ざぶん。
やがて海から現れたのは、一匹の大きな亀でした。
太郎が驚いていると、さらに不思議なことが起こりました。
「太郎さん。」
亀が話しかけてきたのです。
「えっ?」
太郎は目を丸くしました。
「今、しゃべったのかい?」
「はい。」
亀は答えました。
「あなたは先日、浜辺で私を助けてくださった方ですね。」
太郎は、あの日の亀を思い出しました。
「もしかして、あの時の……。」
「そうです。」
亀は頭を下げました。
「助けていただいたお礼がしたいのです。」
「お礼?」
「海の底にある竜宮へ、ご案内いたします。」
「竜宮?」
太郎は聞いたことのない場所でした。
亀は言いました。
「海の底には、とても美しい宮殿があります。」
「竜宮の王様も、あなたをお待ちしています。」
太郎は少し迷いました。
海の底へ行くなど、考えたこともありません。
けれど、亀は穏やかに言いました。
「私の背中に乗ってください。心配はいりません。」
太郎は思い切って、亀の背中に乗りました。
「しっかりつかまっていてください。」
「分かった。」
亀はゆっくりと海へ入っていきました。
ざぶん。
波が太郎の足元を包みます。
そして――。
亀はそのまま海の中へ潜っていきました。
太郎は思わず目を閉じました。
けれど、不思議なことに息ができます。
恐る恐る目を開けると、そこには太郎が今まで見たこともない世界が広がっていました。
青く透き通った海。
頭の上からは太陽の光が差し込み、水の中でゆらゆらと揺れています。
銀色の小さな魚たちが群れになって泳ぎ、
大きな魚がゆったりと通り過ぎていきます。
赤や黄色の美しい魚。
海藻の間を泳ぐ小さな生き物。
色とりどりの貝。
「すごい……。」
太郎は亀の背中から、夢中になって辺りを眺めました。
どんどん深いところへ進んでいくと、海の色は少しずつ濃くなっていきます。
それでも、不思議な光が辺りを照らしていました。
やがて――。
遠くに何かが見えてきました。
「太郎さん、着きましたよ。」
亀が言いました。
太郎は息をのみました。
海の底に、大きな宮殿が建っていたのです。
屋根はきらきらと輝き、柱には美しい飾りが施されています。
門の周りでは、色鮮やかな魚たちが泳いでいました。
「ここが……竜宮。」
門がゆっくりと開きました。
太郎が中へ入ると、そこにはさらに美しい景色が広がっていました。
見たこともない花が咲く庭。
きらきら光る貝殻。
水の中を優雅に泳ぐ魚たち。
まるで夢の中へ迷い込んだようです。
やがて太郎は、竜宮の王様の前へ案内されました。
王様は太郎を見て、にこやかに言いました。
「太郎さん、よく来てくださいました。」
太郎は慌てて頭を下げました。
「お招きいただき、ありがとうございます。」
「あなたが亀を助けてくれたことを聞きました。」
王様は言いました。
「小さな命を大切にしてくれたことを、うれしく思っています。」
太郎は少し照れながら答えました。
「困っていたので、助けただけです。」
王様は笑いました。
「だからこそ、あなたを歓迎したいのです。」
その日から、太郎のために毎日さまざまなもてなしが行われました。
大きな広間には、見たこともないごちそうが並びました。
魚たちが美しい音楽を奏でます。
色鮮やかな着物をまとった者たちが、ゆったりと舞います。
「こんな世界があったなんて……。」
太郎は驚くばかりでした。
竜宮の庭を歩けば、季節の違う花々が一緒に咲いていました。
美しい魚たちと話をしたり、亀と海の中を散歩したりもしました。
楽しい日々が続きました。
朝も夜も忘れてしまうほど、竜宮で過ごす時間は穏やかでした。
けれど――。
ある日のこと。
太郎は庭から遠くの海を眺めていました。
ふと、故郷のことを思い出したのです。
「村のみんなは元気だろうか。」
懐かしい家。
いつも歩いていた浜辺。
村の人たちの顔。
「家族や友だちは、どうしているだろう。」
そう思うと、急に故郷が恋しくなりました。
太郎は王様のところへ行きました。
「王様。」
「どうしました?」
「今まで、本当にありがとうございました。」
太郎は頭を下げました。
「竜宮での暮らしは、とても楽しいものでした。」
「でも、そろそろ故郷へ帰りたいのです。」
王様はしばらく太郎を見つめました。
そして静かにうなずきました。
「そうですか。」
「あなたがそう望むのなら、人間の世界へ戻りましょう。」
太郎はほっとしました。
ところが、王様の顔には少し寂しそうな表情が浮かんでいました。
帰る時。
王様は太郎に、一つの小さな箱を渡しました。
美しい模様の入った、不思議な箱でした。
「太郎さん。」
「これは、あなたに差し上げます。」
太郎は箱を受け取りました。
「ありがとうございます。」
すると王様は、いつになく真剣な顔で言いました。
「ただし、一つだけ約束してください。」
「約束?」
「この箱を、決して開けてはいけません。」
太郎は箱を見つめました。
「開けてはいけないのですか?」
「はい。」
王様はもう一度言いました。
「何があっても、決して開けないでください。」
太郎はうなずきました。
「分かりました。」
「約束します。」
亀が迎えに来ました。
太郎は竜宮の人々に別れを告げ、再び亀の背中に乗りました。
「それでは、行きましょう。」
亀は海の中を進み始めました。
美しい竜宮が少しずつ遠ざかっていきます。
太郎は何度も振り返りました。
やがて宮殿は青い海の向こうへ消えていきました。
上へ。
上へ。
亀は海面を目指して泳ぎます。
水が少しずつ明るくなり――。
ざぶん!
太郎たちは海の上へ出ました。
「着きましたよ。」
亀が浜辺へ近づきます。
太郎は懐かしい砂浜へ降りました。
「ありがとう。」
「お元気で。」
亀はそう言うと、ゆっくり海へ戻っていきました。
太郎は大きく息を吸いました。
潮の匂い。
波の音。
「帰ってきた。」
太郎はうれしくなりました。
ところが――。
しばらく歩いていると、太郎は足を止めました。
「……あれ?」
何かがおかしいのです。
浜辺の形が、以前と少し違っています。
見覚えのない道があります。
村へ入ってみると、さらに驚きました。
「ここは……本当に、ぼくの村なのか?」
家が違います。
道も違います。
見たことのない人ばかりが歩いています。
太郎は急いで自分の家があった場所へ向かいました。
けれど――。
そこには知らない家が建っていました。
「そんな……。」
太郎は村中を歩き回りました。
家族の名前を呼びました。
友だちを探しました。
けれど、誰もいません。
知っている顔は、一人もありませんでした。
太郎は近くにいた年寄りに尋ねました。
「あの……この辺りに、太郎という者が住んでいませんでしたか?」
年寄りは首をかしげました。
「太郎?」
「はい。この村に住んでいた若者です。」
年寄りはしばらく考え込みました。
そして――。
「ああ。」
と声を上げました。
「ずっと昔の話なら、聞いたことがある。」
「昔?」
「この村に太郎という若者がいて、ある日海へ出たまま帰ってこなかったそうだ。」
太郎の顔から血の気が引きました。
「ずっと……昔?」
「そう聞いているよ。」
太郎は何も言えませんでした。
竜宮で過ごしたのは、ほんのわずかな間だったはずです。
楽しい日々が少し続いただけ。
それなのに――。
人間の世界では、長い長い年月が過ぎていたのです。
太郎は一人、浜辺へ戻りました。
ざざーん。
ざざーん。
波の音だけは、昔と変わっていません。
けれど、太郎を知る人はもう誰もいませんでした。
太郎は砂浜に座り込みました。
「みんな……いなくなってしまったのか。」
竜宮へ行く前のことが、次々と思い出されます。
家族の顔。
友だちの声。
村で過ごした日々。
帰れば、すぐに会えると思っていました。
けれど、もう会うことはできません。
どれほど長い時間、太郎は海を見つめていたでしょう。
その時。
太郎は手に持っていた箱に気づきました。
竜宮の王様から渡された、不思議な箱です。
「……この箱。」
王様の言葉を思い出しました。
――決して開けてはいけません。
太郎は箱を膝の上に置きました。
「もしかしたら……。」
この箱の中に、何かが入っているのではないか。
元の時間へ戻る方法があるのではないか。
どうしてこんなことになったのか、その答えがあるのではないか。
太郎の心の中に、そんな思いが浮かびました。
「でも、開けてはいけないと言われた。」
太郎は迷いました。
箱に手を伸ばしては、引っ込めます。
波が寄せてきます。
ざざーん。
そして引いていきます。
ざああ……。
浜辺には太郎しかいません。
「どうしたらいいんだ……。」
太郎は長い間、箱を見つめていました。
けれど――。
とうとう、その手がふたにかかりました。
「少しだけなら……。」
太郎は、ゆっくりと箱を開けました。
その瞬間です。
ふわっ。
箱の中から、真っ白な煙が立ちのぼりました。
「なんだ?」
太郎は慌てて箱を閉じようとしました。
けれど、煙は次から次へとあふれ出してきます。
もくもく。
もくもく。
白い煙が太郎の体を包み込みました。
「うわっ!」
太郎の髪が、みるみる白くなっていきます。
若かった顔にはしわが刻まれました。
背中が曲がり、手も細くなっていきます。
「これは……。」
太郎は自分の手を見つめました。
竜宮で過ごしている間に、人間の世界で流れていた長い年月。
その時間が、一度に太郎へ戻ってきたかのようでした。
やがて煙は風に乗り、海の方へ流れていきました。
浜辺には、年老いた太郎が残されていました。
太郎は、開いてしまった箱を見つめました。
王様の言葉が、もう一度頭に浮かびます。
――決して開けてはいけません。
太郎は静かに箱を閉じました。
そして、目の前に広がる海を見つめました。
遠い海の底には、今もあの美しい竜宮があるのでしょうか。
色とりどりの魚たち。
美しい庭。
楽しい音楽。
自分を迎えてくれた王様。
背中に乗せてくれた亀。
それらは今でも、太郎の心の中にはっきりと残っていました。
ざざーん。
波が浜辺へ寄せます。
太郎はいつまでも、遠い海の向こうを眺めていたそうです。
おしまい。
登場人物
- 太郎
海辺の村で暮らす心優しい若者。いじめられていた亀を助けたことから、海の底にある竜宮へ招かれます。 - 亀
太郎に助けられた亀。恩返しのために太郎を背中へ乗せ、竜宮へ案内します。 - 竜宮の王様
亀を助けた太郎を竜宮へ迎え、温かくもてなします。太郎が帰る際には、不思議な箱を渡し、「決して開けてはいけない」と約束させます。 - 村人たち
太郎が竜宮から帰った時に暮らしていた人々。太郎のことを知る者はおらず、昔この村に同じ名前の若者がいたという話だけが残っています。
教訓
- 困っている人や生き物に手を差し伸べる優しさを大切にする。
- 一度交わした約束には意味があり、守ることの大切さを考える。
- 楽しい時間も、いつまでも同じように続くとは限らないからこそ、今ある時間や大切な人とのつながりを大事にする。
親子で話したいポイント
- 太郎は、どうして亀を助けたのかな?
- 竜宮にはどんな景色が広がっていたと思う?
- 太郎は、どうして楽しい竜宮から帰りたくなったのだろう?
- 王様から「開けてはいけない」と言われた箱を、太郎はなぜ開けてしまったのかな?
- もし自分が太郎だったら、箱を開ける? それとも開けない?
保育士向け活用ポイント
- 海の中を進む場面や美しい竜宮の描写から、海や魚、生き物への興味につなげられる昔話です。
- 「困っている生き物を助ける」「約束を守る」といった身近なテーマについて、子どもたちと話し合うきっかけになります。
- 太郎が故郷へ戻ると長い年月が過ぎていた展開から、「時間」について想像を広げる活動にも活用できます。
- 竜宮の宮殿や海の生き物を自由に想像し、夏の製作活動や絵画、劇遊びへ発展させることができます。


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