あらすじ
むかし、山の中で働く吉作という男がいました。
吉作は毎日のように険しい山へ入り、木を切ったり薪を集めたりして暮らしていました。
ある日、切り立った崖の近くで仕事をしていた吉作は、足元を滑らせ、崖の途中で身動きが取れなくなってしまいます。
下には深い谷。
上へ戻ろうとしても、つかまれる場所がありません。
「誰か、助けてくれ!」
何度叫んでも、山の中には吉作の声が響くだけでした。
やがて日は傾き、辺りは少しずつ暗くなっていきます。
自然の中で働くことの厳しさと、ほんのわずかな油断が大きな危険につながることを伝える、少し怖い昔話です。
本文
むかしむかし、山の中で働く吉作という男がいました。
吉作は毎日のように山へ入り、木を切ったり、薪を集めたりして暮らしていました。
山の仕事には、すっかり慣れていました。
どの道を通ればよいのか。
どこに足を置けば歩きやすいのか。
どの辺りに薪になる木が多いのか。
吉作は山のことをよく知っていました。
けれど、山はいつも同じ顔をしているわけではありません。
雨が降れば地面は滑りやすくなります。
風が吹けば枝が落ちてくることもあります。
昨日まで動かなかった石が、突然崩れることもあります。
山は豊かな恵みを与えてくれる場所であると同時に、少しの油断が命に関わる場所でもありました。
ある日のことです。
吉作は朝早くから山へ入りました。
空はよく晴れていました。
鳥の声が山のあちこちから聞こえています。
「今日はよく仕事ができそうだ。」
吉作はいつものように山道を登っていきました。
ざっ。
ざっ。
背負ってきた道具を下ろすと、さっそく仕事を始めます。
しばらくして、吉作は切り立った崖の近くまでやってきました。
そこから下をのぞけば、深い谷が広がっています。
ずっと下のほうには木々が生い茂り、その先はよく見えません。
吉作は崖の近くで慎重に仕事を続けました。
「ここまで来れば、もう少しで仕事が終わる。」
長い一日の仕事も、あと少しです。
吉作は足元を確かめながら体を動かしました。
そのときでした。
ぐらり。
足の下にあった石が動きました。
「えっ?」
次の瞬間――。
がらがらっ!
石が崖の下へ転がり落ちていきました。
吉作の体も大きく傾きます。
「危ない!」
吉作はとっさに近くの岩へ手を伸ばしました。
がしっ!
なんとか岩につかまります。
足元から、細かな石がぱらぱらと谷へ落ちていきました。
吉作は息をのみました。
「危なかった……。」
けれど、安心することはできません。
吉作は崖の途中に取り残されていました。
上を見ると、さっきまで立っていた場所があります。
しかし、そこまで戻るには足をかける場所がほとんどありません。
下を見ると――。
深い谷。
吉作はすぐに目をそらしました。
「まずいな……。」
岩につかまりながら、ゆっくり体を動かします。
「ここに足を……。」
慎重に足を伸ばしました。
けれど、つま先が岩に届きません。
「もう少し……。」
さらに体を伸ばします。
ぱらっ。
足元の土が崩れました。
「うわっ!」
吉作は慌てて岩にしがみつきました。
どくん。
どくん。
胸の音が大きく聞こえます。
「落ち着け。」
吉作は自分に言い聞かせました。
「慌てるな。」
もう一度、辺りを見回しました。
つかまれそうな岩。
足を置けそうなくぼみ。
上へ戻る道。
下へ降りる道。
けれど、どちらにも安全に進めそうな場所が見つかりません。
「どうすればいい……。」
吉作は崖にしがみついたまま考えました。
山の中は静かでした。
さっきまで聞こえていた鳥の声も、いつの間にか少なくなっています。
ひゅう……。
崖の間を風が吹き抜けました。
吉作は顔を上げました。
「誰かいないか!」
大声で叫びました。
声が山に響きます。
「誰か――!」
しばらく待ちました。
けれど――。
返事はありません。
「助けてくれ!」
もう一度叫びます。
「誰かいないのか!」
遠くの山から、自分の声だけが返ってきました。
誰も来ません。
吉作は朝から一人で山へ入っていたのです。
「くそ……。」
もう一度、上へ戻ろうとしました。
岩に指をかけます。
少しずつ体を持ち上げました。
「よし……。」
あと少し。
そう思ったとき――。
ぼろっ。
手をかけていた岩の一部が崩れました。
「うわっ!」
吉作の体が下へずれます。
慌てて別の場所につかまりました。
小さな石が次々と谷底へ落ちていきます。
からん。
からから……。
やがて、その音さえ聞こえなくなりました。
吉作は青ざめました。
「こんなに深いのか……。」
もう、むやみに動くことはできません。
吉作は崖にしがみつきながら、助けが来るのを待つことにしました。
時間が過ぎていきます。
山の向こうへ、太陽が少しずつ傾いていきました。
明るかった空が、黄色から赤へ変わっていきます。
「まずい。」
吉作は空を見上げました。
「このままでは夜になってしまう。」
夜の山は昼間とはまるで違います。
暗くなれば、足元を見ることさえ難しくなります。
それに、山の夜は冷え込みます。
吉作は再び叫びました。
「誰か!」
返事はありません。
「助けてくれ!」
しん……。
風が吹きます。
ざわざわ……。
遠くで木々が揺れています。
「誰かいないのか!」
何度叫んでも、吉作の声は山の中へ消えていきました。
だんだん喉も痛くなってきました。
腕も疲れてきます。
指先にも力が入りにくくなっていました。
「どうすればいい……。」
吉作は必死に考えました。
上へ戻るか。
下へ降りるか。
それとも、このまま助けを待つか。
けれど、どの方法にも危険がありました。
焦るほど、呼吸が速くなります。
「落ち着け……。」
吉作は深く息をしました。
「まだ慌てるな。」
しかし、その間にも空は暗くなっていきます。
崖の下から冷たい風が吹き上げてきました。
ひゅうう……。
吉作は体を縮めました。
「寒くなってきたな……。」
もう一度、足を置けそうな場所を探しました。
「あそこなら……。」
少し離れたところに、小さな岩の出っ張りがあります。
あそこまで足を伸ばせれば、体を支えられるかもしれません。
吉作は慎重に動きました。
「ゆっくりだ。」
片方の手で岩をつかみます。
もう片方の手を伸ばします。
足を少しずつ動かします。
「あと少し……。」
そのとき――。
ざらっ。
足元の土が崩れました。
吉作の顔がこわばります。
「待て……!」
崖の表面から小石が落ちていきます。
ぱらぱら。
ぱらぱら。
吉作は動きを止めました。
けれど、崩れ始めた土は止まりません。
「まずい!」
足を元の場所へ戻そうとします。
しかし、さっきまで足を置いていた場所も崩れていました。
「そんな……。」
吉作の足が宙に浮きました。
両手だけで体を支えます。
「くっ……!」
腕に力を込めました。
指が岩に食い込みます。
「誰か!」
吉作は叫びました。
「誰か、助けてくれ!」
声が夕暮れの山へ響きました。
けれど、返事はありません。
ただ、風の音だけが聞こえます。
ひゅう……。
吉作は必死に岩へしがみつきました。
「まだだ……。」
けれど、腕の力は少しずつ失われていきます。
「まだ……。」
指が震え始めました。
そして――。
ぼろっ。
つかんでいた岩の端が崩れました。
吉作の目が大きく見開かれます。
「……!」
その瞬間、吉作の足場は完全になくなりました。
山の木々が風に揺れました。
ざわざわ……。
やがて日は山の向こうへ沈み、深い谷にも暗い影が広がっていきました。
おしまい。
登場人物
吉作
山で木を切ったり薪を集めたりして暮らしている男性。山仕事には慣れていましたが、崖の近くで足場を失い、身動きが取れなくなってしまいます。
山の自然
吉作に仕事や暮らしの恵みを与える一方、崖や崩れやすい足場などの危険も持つ存在。人間の思い通りにはならない自然の厳しさを表しています。
教訓
慣れている場所や仕事であっても、危険がなくなるわけではなく、安全を確かめることが大切。
危険を感じたときには無理に進まず、立ち止まって安全な方法を考えることが必要。
仕事や目的を達成することよりも、まず自分の命や安全を守ることを大切にしなければならない。
親子で話したいポイント
吉作は、どんな場所で危険な目に遭ったのかな?
慣れている場所でも、危ないことが起こるのはどうしてだろう?
危ない場所を見つけたときには、どうすればいい?
一人では難しいことや危険なことをするとき、誰に助けを求めればいいかな?
「安全にする」というのは、どんなことだと思う?
保育士向け活用ポイント
安全指導や、子ども自身が危険を予測する活動への導入として活用できます。
吉作が慣れている山で事故に遭う展開から、「いつも遊んでいる場所でも危険はある?」「高いところや崖のような場所では、どんなことに気をつける?」と考えるきっかけにできます。
また、「やってみたい」「もう少しできそう」という気持ちと、「安全にできるかどうか」は別であることを伝える題材にもなります。
園庭や散歩先、公園など身近な場所の写真やイラストを見ながら、「危ないところはどこかな?」「どうすれば安全に遊べるかな?」と子どもたち自身が考える危険予測活動へつなげることもできます。


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