あらすじ
むかし、山で働きながら暮らしている兄弟がいました。
ある日、兄は山奥にある深い淵の底に、とても質のよい漆がたまっていることを見つけます。
「これを売れば、大金になる。」
そう考えた兄は、漆のことを弟には教えず、自分だけのものにしようとしました。
そこで兄は、「あの淵には恐ろしい龍が住んでいる」と弟に話し、さらに木を削って龍を作り、淵へ沈めて弟を怖がらせます。
ところが、ただの木彫りだったはずの龍が、淵の底で本物の龍のように動き始めます。
自分だけ得をしようとした兄が、不思議で恐ろしい出来事に遭う昔話です。
本文
むかしむかし、山の中で暮らしている兄弟がいました。
二人は毎日のように山へ入り、木を切ったり、木の実を集めたりしながら生活していました。
朝になると、兄弟は道具を持って山へ向かいます。
ざっ、ざっ。
木々の間を通る細い山道を歩き、日が傾くころまで働きました。
ある日のことです。
兄はいつもより山の奥深くまで入っていきました。
木々が生い茂り、昼間だというのに辺りは薄暗くなっています。
鳥の声も、いつの間にか遠くなっていました。
「こんなところまで来たのは初めてだな。」
兄がさらに進んでいくと、木々の向こうに水が見えました。
近づいてみると、そこには大きな淵がありました。
兄は足を止めました。
「こんなところに淵があったのか。」
水は青黒く、じっとのぞき込んでも底が見えません。
風が止まると、水面は鏡のように静かになりました。
しん……。
周りには誰もいません。
深い山の中に、その淵だけがひっそりと横たわっています。
兄は少し気味が悪くなりました。
そのときです。
「あっ!」
手にしていた道具が滑り落ちました。
ぽちゃん。
道具は水の中へ沈んでいきます。
「しまった。」
兄は水面をのぞき込みました。
けれど、道具の姿はもう見えません。
「仕方がない。取りに行こう。」
兄は覚悟を決め、淵の中へ入りました。
水は冷たく、少し進むだけですぐに深くなっていきます。
兄は大きく息を吸いました。
そして――。
ざぶん。
水の中へ潜りました。
上から差し込んでいた光が、少しずつ遠くなっていきます。
兄は底へ、底へと潜っていきました。
やがて、落とした道具を見つけました。
「よし。」
手を伸ばして拾い上げようとした、そのときです。
兄は淵の底に何かがあることに気づきました。
「なんだ、これは……?」
よく見ると、そこには見事な漆がたまっていました。
兄は驚きました。
山で働いている兄には、それがどれほど価値のあるものなのか分かりました。
兄は急いで水面へ戻りました。
ざばっ!
「ぷはっ!」
大きく息をしながら岸へ上がります。
そして、もう一度淵を見ました。
「間違いない。」
兄の胸が高鳴りました。
「あんなにたくさんの漆があるなら……。」
頭の中で、すぐに勘定が始まりました。
「売れば大金になるぞ。」
兄はにやりとしました。
けれど、すぐに弟の顔が浮かびました。
「弟に知られたら、分けなければならなくなる。」
兄は考え込みました。
本当なら、兄弟で見つけたものとして分けてもよかったはずです。
しかし、兄は次第に欲が出てきました。
「いや……。」
兄は淵を振り返りました。
「あの漆は、全部おれが見つけたんだ。」
誰にも渡したくない。
弟にも教えたくない。
「そうだ。黙っていればいい。」
その日、兄は何食わぬ顔をして家へ帰りました。
けれど、それから兄は何度も一人で山奥へ向かうようになりました。
弟は不思議に思いました。
「兄さん、最近よく山の奥へ行くね。」
「そうか?」
「何かあるの?」
兄は少し慌てました。
「何もない。」
「でも、いつも同じ方へ行っているじゃないか。」
弟は気になって仕方ありません。
そこで兄は考えました。
このままでは、いつか弟も淵を見つけてしまうかもしれない。
「そうだ。」
兄は弟に言いました。
「山の奥には行かないほうがいいぞ。」
「どうして?」
「あそこには深い淵がある。」
「淵?」
弟は興味を持ちました。
兄は声を低くしました。
「その淵にはな……恐ろしい龍が住んでいるんだ。」
「龍?」
弟の顔がこわばりました。
「ああ。大きな龍だ。」
「本当に?」
「本当だとも。近づいたら何をされるか分からないぞ。」
弟は少し怖くなりました。
けれど同時に、気にもなりました。
「本当に龍なんているのかな……。」
兄の話を聞けば聞くほど、自分の目で確かめたくなります。
それに気づいた兄は困りました。
「話だけではだめか。」
そこで兄は、さらに弟を怖がらせることにしました。
兄は木を一本用意しました。
そして、少しずつ削り始めます。
ごりごり。
こつこつ。
頭を作り。
長い体を作り。
足を作り。
少しずつ龍の形にしていきました。
「これなら、本物だと思うだろう。」
できあがった木彫りの龍を見て、兄は満足しました。
そして弟に見つからないよう、それを山奥の淵へ運びました。
夕暮れの山は、昼間とはまるで違う場所のようでした。
木々の間には影が広がり、淵の水はさらに黒く見えます。
兄は木彫りの龍を抱えて水辺へ立ちました。
「ここならいいだろう。」
ざぶん。
木彫りの龍を淵へ沈めました。
黒い水の中へ、龍の姿がゆっくり消えていきます。
兄は水面を見つめました。
しばらくすると、淵は再び静かになりました。
次の日。
兄は弟を淵の近くまで連れていきました。
「ほら、あそこだ。」
弟は恐る恐る水面をのぞきました。
青黒い水の奥に、何か長いものが見えます。
「……あれは?」
兄は声をひそめました。
「龍だ。」
弟の顔が真っ青になりました。
水の中には、確かに龍のような姿があります。
「本当にいた……!」
弟は後ずさりました。
「だから言っただろう。ここへ来てはいけない。」
「う、うん。」
弟は怖くなり、急いでその場から逃げていきました。
その背中を見送りながら、兄は笑いました。
「これでもう、弟は近づかないだろう。」
兄は安心しました。
これで淵の漆は全部自分のものです。
それから兄は、一人で漆を取り始めました。
淵の中へ潜り、底から漆を取ります。
何度も。
何度も。
「これだけあれば、ずいぶん金になる。」
兄は夢中でした。
弟のことも、木彫りの龍のことも、すっかり気にしなくなっていました。
ところが――。
ある日のことです。
兄がいつものように淵へ潜りました。
水の中は薄暗く、少し先さえよく見えません。
兄は底へ向かって進みました。
そのときです。
何かが視界の端を横切ったような気がしました。
「……ん?」
兄は動きを止めました。
辺りを見回します。
何もありません。
「魚か。」
兄は再び漆のほうへ向かいました。
すると――。
ゆらり。
今度は、はっきり見えました。
水の向こうで、何か大きなものが動いています。
兄は目を凝らしました。
長い体。
大きな頭。
「まさか……。」
兄の顔から血の気が引きました。
そこにあったのは、自分が作った木彫りの龍でした。
「そんなはずはない。」
兄は自分に言い聞かせました。
「あれは木で作ったものだ。」
動くはずがありません。
けれど――。
ゆらり。
龍の頭が動きました。
兄のほうを向いたように見えます。
「……え?」
次の瞬間。
龍が水の中を進み始めました。
兄に向かって。
ゆっくり。
ゆっくり。
けれど、確かに近づいてきます。
「う、動いている……!」
兄は青ざめました。
自分で削った木の龍。
自分で淵へ沈めた龍。
そのはずなのに――。
まるで本物の龍のように、水の中を動いているのです。
兄は慌てて水面へ向かいました。
ざばっ!
「うわあっ!」
水から顔を出し、岸へ向かって必死に泳ぎます。
その後ろで――。
ざぶん。
大きな水音がしました。
兄は振り返りませんでした。
「来るな!」
必死で岸へ手を伸ばします。
ざばっ。
ざばっ。
背後から、水をかき分けるような音が近づいてきます。
「うわあああ!」
兄はようやく岸へはい上がりました。
そのまま立ち上がり、山道を走りました。
枝が顔に当たっても。
石につまずきそうになっても。
振り返ることなく走りました。
ざっ、ざっ、ざっ。
けれど、後ろから何かが追ってくるような気がします。
兄は息を切らしながら、ようやく弟のいるところまで戻ってきました。
「兄さん!」
弟は驚きました。
いつもと違う兄の様子。
青ざめた顔。
泥だらけの服。
激しく乱れた息。
「どうしたの?」
兄はすぐには答えられませんでした。
何度も息を整え、ようやく口を開きました。
「龍が……。」
「え?」
「龍が追ってきた。」
弟は目を見開きました。
兄はうつむきました。
そして、自分がしてきたことを話しました。
淵の底に漆を見つけたこと。
それを一人で手に入れようとしたこと。
弟を近づけないため、龍がいるとうそをついたこと。
木を削って龍を作り、淵へ沈めたこと。
弟は黙って聞いていました。
兄はぽつりと言いました。
「自分だけ得をしようとして、おまえを怖がらせた。」
そして、深く息を吐きました。
「それが間違いだった。」
兄弟の向こうには、深い山が広がっています。
さらにその奥には、あの青黒い淵があります。
風が山を渡りました。
ざわざわ……。
木々が大きく揺れます。
兄はもう、あの淵へ戻ろうとは思いませんでした。
そして淵の底では、あの木彫りの龍がどうなったのか――。
それを確かめる者は、誰もいませんでした。
おしまい。
登場人物
兄
山で暮らしながら働いている人物。淵の底に価値のある漆を見つけ、それを独り占めしようとします。弟を遠ざけるために龍がいるとうそをつき、木彫りの龍を淵へ沈めます。
弟
兄と一緒に山で暮らす人物。兄から「淵には龍がいる」と聞かされ、その言葉を信じます。木彫りの龍を見て本当に龍がいると思い、淵から遠ざかります。
龍
兄が弟を怖がらせるために木を削って作った龍。淵へ沈められますが、やがて本物の龍のように動き出し、兄を追いかけます。
教訓
自分だけが得をしようとする欲ばりな心は、思いがけない災いを招くことがある。
人をだましたり怖がらせたりして自分の利益を守ろうとすると、いつか自分自身が困ることにつながる。
兄弟や仲間と大切なものを分かち合い、互いに支え合うことが大切。
親子で話したいポイント
兄は、どうして漆のことを弟に教えたくなかったのかな?
弟を近づけないために、兄が龍を作ったことについてどう思う?
自分だけが得をしようとすると、どんなことが起こるだろう?
木彫りの龍が動き始めたとき、兄はどんな気持ちだったと思う?
兄は最後に、自分のどんな行動を反省したのかな?
保育士向け活用ポイント
「独り占め」「共有すること」「人をだますこと」を考える題材として活用できます。
兄が価値のある漆を自分だけのものにしようとする場面から、「みんなで使うものを一人だけで使ったらどうなる?」「友達に知られないように隠したら、どんな気持ちになる?」など、園生活で起こる身近な場面につなげて考えることができます。
また、弟を怖がらせるためについたうそが、最後には兄自身を怖がらせる出来事へつながる展開から、「人を困らせるためのうそ」について考えるきっかけにもできます。
深い淵や龍が登場するため、青や黒の絵の具を使った淵の表現、龍の製作、龍が水の中を動く様子を身体で表現する遊びなど、物語の不思議で少し怖い世界を楽しむ活動にも発展させられます。


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