あらすじ
むかしむかし、山と山の間にある小さな村の近くに、大きな沼がありました。
昼間は魚や水鳥が集まる美しい沼でしたが、日が暮れると辺りは深い静けさに包まれ、村人たちは決して近づこうとはしませんでした。
なぜなら、昔からこんな言い伝えがあったからです。
「この沼には、大きな主が住んでいる。」
ある日、村の若者・太助は、沼のほとりで木の枝に足を取られて動けなくなっている小さな亀を見つけ、助けてやります。
その日の夜。
太助の家の戸を、「トン、トン」とたたく者が現れました。
戸の向こうに立っていたのは、見たことのない老人。
そして老人は、太助に不思議な言葉を告げるのでした。
本文
むかしむかし、山と山の間に、小さな村がありました。
村の周りには田畑が広がり、その向こうには深い森と山々が連なっていました。
そして、村から少し山道を歩いたところに、大きな沼がありました。
沼の水は深い緑色をしていました。
昼間になると、水面には日の光がきらきらと反射します。
小さな魚が泳ぎ、
水鳥が羽を休め、
岸辺には季節ごとにさまざまな草花が咲きました。
村の子どもたちも、昼間なら沼の近くまで遊びに来ることがありました。
けれど――。
日が傾き始めると、村人たちは子どもたちを呼び戻しました。
「そろそろ帰っておいで。」
「暗くなる前に沼を離れるんだよ。」
「どうして?」
子どもが尋ねると、大人たちは沼の方をちらりと見て言いました。
「この沼には、主がいるからさ。」
「ぬし?」
「ああ。」
村には、ずっと昔からこんな言い伝えがありました。
「この沼には、大きな主が住んでいる。」
「沼を大切にする者には恵みを与え、沼を荒らす者には災いが起こる。」
けれど、その主がどんな姿をしているのか、誰も知りません。
巨大な魚だと言う人もいました。
長い蛇だと言う人もいました。
水の底に住む化け物だと言う人もいました。
「夜の沼で、大きな影を見た。」
そんな話をする老人もいました。
けれど、本当に見たのかと尋ねると、
「さあなあ。」
と笑うばかりです。
それでも、日が暮れたあとの沼は、昼間とはまるで違いました。
夕日が山の向こうへ沈むと、水面は黒く染まります。
ざわ……。
風が吹くたび、岸辺の草が揺れました。
ちゃぷん。
どこかで魚が跳ねます。
そして時折――。
ぼこっ。
沼の奥から、大きな泡が浮かんでくることがありました。
「主様が息をしているんだ。」
村人たちはそう言いました。
そのため、誰も夜の沼へ近づこうとはしませんでした。
村には、太助という若者が暮らしていました。
太助は働き者で、田畑の仕事をしながら年老いた両親を助けていました。
そして、生き物を見ると放っておけない性格でした。
道にひっくり返った虫がいれば起こしてやり、
巣から落ちた鳥のひながいれば、そっと元へ戻してやります。
ある日の夕方のことです。
太助は山へ薪を拾いに出かけた帰り道、沼のそばを通りかかりました。
空は赤く染まり始めていました。
「少し遅くなったな。」
太助は薪を背負い、足早に村へ戻ろうとしました。
その時です。
がさっ。
「ん?」
岸辺の草むらから、何かが動く音がしました。
がさがさっ。
「何だ?」
太助は足を止めました。
最初は魚かと思いました。
けれど、水の中ではありません。
草むらの中から聞こえてきます。
太助はそっと近づきました。
すると――。
「亀か。」
小さな亀が一匹、草の間でもがいていました。
前足には折れた木の枝が絡みついています。
動こうとするたび、枝が足に食い込み、うまく水へ戻れないようでした。
「これは痛そうだ。」
太助は薪を下ろしました。
「じっとしてろよ。」
亀は驚いたように首を引っ込めました。
太助は無理に引っ張らず、絡まった枝を一本ずつ外していきました。
「もう少しだ。」
ぱきっ。
最後の枝が外れました。
亀の足には小さな傷ができています。
太助は沼の水で傷についた泥をそっと洗いました。
「これで大丈夫かな。」
亀を両手で持ち上げ、水辺へ下ろします。
ちゃぷん。
亀はゆっくりと水の中へ入りました。
少し泳いだところで――。
すっ。
亀が振り返りました。
太助を見ています。
「もう捕まるんじゃないぞ。」
太助が笑うと、亀はしばらくこちらを見つめていました。
そして――。
すうっ。
深い水の中へ潜っていきました。
水面に小さな波紋が広がります。
その時でした。
ぼこっ。
沼のずっと奥で、大きな泡が一つ浮かびました。
太助は顔を上げました。
「……?」
ぼこっ。
もう一つ。
水面の下に、何か大きな影が動いたように見えました。
太助は目を凝らします。
けれど――。
そこには、夕暮れの暗い水面が広がっているだけでした。
「気のせいか。」
太助は薪を背負い直しました。
日が暮れかけています。
山から吹き下ろす風が、少し冷たくなってきました。
太助は急いで村へ帰りました。
その夜のことです。
村はすっかり寝静まっていました。
虫の声だけが、
りん、りん。
と聞こえています。
太助も布団に入り、眠りかけていました。
すると――。
トン。
「……?」
太助は目を開けました。
トン、トン。
家の戸をたたく音です。
「こんな時間に誰だ?」
外は真っ暗です。
村人なら、大声で名前を呼びそうなものです。
けれど、戸の向こうからは何も聞こえません。
しん……。
太助は布団から起き上がりました。
「誰ですか?」
返事はありません。
太助が戸へ近づこうとすると――。
トン。
トン。
もう一度、音がしました。
太助は足を止めました。
昼間、村人たちから聞いた話が頭をよぎります。
――この沼には主がいる。
「まさかな……。」
太助は自分に言い聞かせました。
そっと戸へ近づきます。
外から冷たい風が、戸の隙間を抜けてきました。
「誰です?」
太助はもう一度尋ねました。
すると――。
「太助さん。」
低く、静かな声が聞こえました。
太助の背中に、ぞくりと寒気が走りました。
聞いたことのない声です。
「どなたですか?」
「少し、お話がございます。」
太助は迷いました。
けれど、声に怒っている様子はありません。
思い切って戸を開けました。
ぎい……。
そこには、一人の老人が立っていました。
白い髪。
長いひげ。
深いしわの刻まれた顔。
見たことのない老人です。
それなのに、不思議なことに着物は少しも汚れていません。
太助は尋ねました。
「どちら様でしょう?」
老人は静かに太助を見つめました。
「太助さん。」
「はい。」
「あなたは今日、沼で一匹の亀を助けましたね。」
太助は驚きました。
「どうして、それを……?」
あの時、周りには誰もいなかったはずです。
「見ていたのですか?」
老人は答えません。
ただ、穏やかに笑いました。
その時――。
太助は気づきました。
老人の足元が、濡れています。
ぽたり。
ぽたり。
着物の裾から水が落ちていました。
けれど、今夜は雨など降っていません。
「あなたは……。」
老人は言いました。
「私は、あの沼を守る者です。」
太助は息をのみました。
「沼を……守る?」
老人が一歩前へ出ました。
その瞬間――。
ふわり。
どこからともなく、湿った風が吹き込みました。
家の明かりが揺れます。
老人の影が、壁の上で大きく伸びました。
ゆらり。
ゆらり。
そして、その姿が少しずつ変わっていきます。
背中が丸くなり、
手足の形が変わり、
着物の向こうから、大きな甲羅が現れました。
「……!」
太助は思わず後ずさりました。
目の前にいた老人の姿は消えていました。
そこにいたのは――。
太助の体よりもずっと大きな、巨大な亀でした。
黒く光る甲羅。
太く大きな足。
そして、長い年月を生きてきたことを思わせる、静かな目。
太助は声を失いました。
「まさか……。」
巨大な亀は、ゆっくりとうなずきました。
「私は長い間、あの沼を守ってきた。」
「沼の主……。」
太助はようやく声を出しました。
村で何度も聞いた言い伝え。
誰も姿を知らなかった沼の主が、今、自分の目の前にいるのです。
太助は怖くなりました。
けれど、沼の主の目には怒りはありませんでした。
「怖がらなくてもよい。」
主は静かに言いました。
「私は、お前に礼を言いに来たのだ。」
「礼?」
「あの亀は、沼に暮らす大切な命の一つ。」
「お前は誰に頼まれたわけでもないのに、助けてくれた。」
太助は首を振りました。
「困っていたから助けただけです。」
「それでよい。」
沼の主はうなずきました。
「だが、最近は沼へごみを捨てる者もいる。」
「水を汚し、生き物のすみかを荒らす者もいる。」
「魚も、鳥も、虫も、草花も、あの沼の水と共に生きている。」
太助は黙って聞いていました。
「そんな中で、お前のように小さな命を大切にする者がいることを知った。」
沼の主は静かに太助を見つめました。
「私は、それがうれしかった。」
すると沼の主は、どこからともなく小さな袋を取り出しました。
「これを。」
太助は恐る恐る受け取りました。
「何ですか?」
「開けてみなさい。」
袋を開くと、中には見たことのない種がいくつも入っていました。
小さな種ですが、月明かりを受けて、ほんのり光っているように見えます。
「この種を村で育てなさい。」
「種を?」
「大切に育てれば、きっと村の役に立つ。」
太助は袋を両手で持ち、深く頭を下げました。
「ありがとうございます。」
顔を上げると――。
ふっ。
家の明かりが一瞬消えました。
「えっ?」
すぐに明かりが戻ります。
けれど、そこにはもう沼の主の姿はありませんでした。
戸の向こうには、暗い夜道が続いているだけです。
太助は外へ出ました。
「主様?」
返事はありません。
ただ遠くの山の方から――。
ちゃぷん。
水の音が聞こえたような気がしました。
翌朝。
太助は昨夜もらった種を畑に植えました。
毎日、水をやりました。
土が乾けば耕し、
雑草が生えれば抜きました。
数日すると、小さな芽が出ました。
「おお。」
さらに何日かすると、芽はぐんぐん大きくなりました。
やがて立派な葉が茂り、たくさんの実をつけました。
「これはすごい。」
太助が収穫してみると、どれも大きく、味もよく、少しの種から驚くほどたくさんの作物が採れました。
村人たちは集まってきました。
「太助、これは何という作物だ?」
「こんな立派なものは見たことがない。」
太助は、沼の主からもらった種だと話しました。
「沼の主?」
「本当にいたのか!」
「どんな姿だった?」
太助は笑いました。
「とても大きな亀だったよ。」
村人たちは驚きました。
けれど太助は、採れた作物を自分の家だけのものにはしませんでした。
「みんなで分けよう。」
種を村人たちに分けました。
食べ物に困っている家には、多めに作物を届けました。
やがて村のあちこちの畑で、立派な作物が育つようになりました。
村は以前より豊かになりました。
ある日、太助は村人たちを集めました。
「沼の主様は、沼が汚れていると言っていた。」
村人たちは顔を見合わせました。
「確かに最近、いらないものを沼の近くへ捨てる者がいたな。」
「水辺の草を必要以上に刈ったこともある。」
「それではいけない。」
村人たちは沼をきれいにすることにしました。
岸辺に落ちているごみを拾い、
水を汚さないようにし、
魚や鳥のすみかをむやみに荒らさないようにしました。
子どもたちにも言いました。
「生き物を見つけても、必要以上に追いかけてはいけないよ。」
「沼は、みんなが暮らしている場所だからね。」
少しずつ、沼は以前の美しさを取り戻していきました。
水は澄み、
魚が戻り、
水鳥たちも再び集まるようになりました。
岸辺には草花が咲きました。
それからしばらくたった、よく晴れた日のことです。
村の子どもたちが沼の近くで遊んでいました。
「見て! 魚がいる!」
「こっちにはカエル!」
子どもたちが水辺をのぞいていると――。
ぼこっ。
大きな泡が浮かびました。
「ん?」
ぼこっ。
ぼこっ。
水面がゆっくりと揺れ始めます。
子どもたちは静かになりました。
「何かいる……。」
沼の奥から、大きな黒い影が近づいてきます。
ゆらり。
ゆらり。
「魚?」
「違うよ。」
影は、どんどん大きくなります。
やがて――。
ざばっ。
水面から、大きな亀が顔を出しました。
「わあ!」
子どもたちは驚きました。
けれど、大きな亀は何もしません。
静かな目で子どもたちを見つめています。
一人の子どもが小さな声で言いました。
「もしかして……。」
「沼の主様?」
大きな亀は、しばらく子どもたちを見つめていました。
そして、ゆっくりと首を動かしました。
まるで、うなずいたように見えました。
「主様だ!」
子どもたちは大喜びしました。
「太助さんを呼んでこよう!」
一人の子が村へ走り出しました。
けれど――。
ちゃぷん。
子どもたちがもう一度水面を見ると、大きな亀の姿はありません。
水面には、いくつもの波紋だけが残っていました。
やがて太助と村人たちがやってきました。
「どこだ?」
「ここにいたんだよ!」
「こんなに大きな亀だった!」
子どもたちは両手を大きく広げました。
太助は沼を見つめました。
風が吹き、水面がきらきらと輝いています。
「そうか。」
太助は静かに笑いました。
「きっと、沼が元気になったか見に来たんだろう。」
その日の夕方。
太助が一人で沼の近くを通ると、遠くの水面に大きな影が見えました。
太助は立ち止まりました。
「主様。」
影も動きを止めたように見えます。
「これからも、この沼を大切にします。」
太助が頭を下げると――。
ちゃぷん。
大きな影は、静かに水の底へ消えていきました。
辺りには夕暮れの静けさが戻ります。
岸辺の草が、風に揺れていました。
そして沼の真ん中には、大きな波紋が一つ、ゆっくりと広がっていきました。
おしまい。
登場人物
- 太助
生き物を大切にする心優しい若者。沼のほとりで動けなくなっていた亀を助けたことから、沼の主と出会います。もらった種を自分だけのものにせず、村人たちにも分けます。 - 沼の主
長い間、沼とそこに暮らす生き物たちを守っている不思議な存在。老人の姿で太助を訪ね、本来の姿は巨大な亀です。 - 村人たち
太助と沼の主の出来事をきっかけに、改めて沼との関わり方を見直します。 - 村の子どもたち
美しさを取り戻した沼で遊び、大きな亀の姿を目撃します。
教訓
- 小さな命であっても、大切にしようとする気持ちが大切。
- 自然を守ることは、そこに暮らす生き物だけでなく、人間の暮らしを守ることにもつながる。
- 誰かのためにした優しい行いが、思いがけない形で自分や周囲の人へ返ってくることがある。
- 自然から受け取った恵みを自分だけのものにせず、周囲と分かち合うことで、より多くの人の幸せにつながる。
親子で話したいポイント
- 太助は、どうして困っていた亀を助けたのかな?
- 夜に知らない老人が訪ねてきた時、太助はどんな気持ちだったと思う?
- 沼の主は、どうして太助に不思議な種を渡したのかな?
- 村人たちが沼を大切にするようになると、どんな変化が起きた?
- 川や池、公園など、身近な自然を守るためにできることを考えてみよう。
保育士向け活用ポイント
- 沼の主が現れるまでの静けさや物音を意識して読むことで、怖すぎない程度の緊張感を楽しめる読み聞かせになります。
- 「トン、トン」「ぼこっ」「ちゃぷん」などの擬音を子どもたちと一緒に表現することで、物語への参加を促せます。
- 亀を助ける太助の姿から、生き物との関わり方や命を大切にすることについて話し合うきっかけになります。
- 沼が汚れた状態から再び生き物の集まる場所へ戻っていく展開を、環境や自然保護について考える活動につなげることができます。
- 園庭や公園での生き物探し、水辺の生き物についての図鑑調べ、自然物を使った制作などにも発展させやすい題材です。


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