あらすじ
むかしむかし、山に囲まれた小さな村に、年を取って働けなくなった人を山へ置いてこなければならないという、悲しい決まりがありました。
ある日、一人の男も、年老いた母親を山へ連れて行くことになります。
男は母親を背負い、つらい気持ちを抱えながら山道を登っていきました。
ところがその途中、母親は木の枝を折り、道に落とし始めます。
不思議に思った男が理由を尋ねると、母親は「お前が帰り道に迷わないように」と答えました。
自分が山に置き去りにされようとしているときでさえ、息子のことを心配する母親。
その深い愛情に触れた男は、ある決心をします。
本文
むかしむかし、深い山々に囲まれた小さな村がありました。
春には山菜が採れ、夏には田畑が青々と広がり、秋には山が赤や黄色に染まりました。
けれど冬になると、村は深い雪に覆われました。
食べ物が十分にとれない年もあり、人々の暮らしは決して楽ではありませんでした。
そんな村には、昔から一つの厳しい決まりがありました。
それは――。
「年を取り、働くことができなくなった者は、山へ連れて行かなければならない」
というものでした。
村人たちは、その決まりを恐れていました。
「長い間、家族のために働いてきた人なのに」
「年を取ったというだけで、山へ連れて行かなければならないなんて……」
そう思っていても、長い間続いてきた村の決まりです。
誰も逆らおうとはしませんでした。
村の外れに、一人の男が年老いた母親と暮らしていました。
男は働き者で、朝から夕方まで畑へ出て働きました。
そして母親は、そんな息子をいつも優しく見守っていました。
男がまだ小さかったころ。
高い熱を出した夜には、母親が一晩中そばについていました。
「大丈夫だよ」
そう言って、何度も冷たい布で額をぬぐってくれました。
食べ物が少なかったときには、
「私はもうお腹いっぱいだから」
と言って、自分の分を息子へ渡しました。
けれど本当は、母親のお腹も空いていました。
男が仕事で失敗して落ち込んだときには、
「失敗したなら、またやり直せばいい」
と励ましてくれました。
男にとって母親は、ずっと自分を支えてくれた大切な人でした。
けれど年月は過ぎていきます。
母親の髪は白くなり、背中は少しずつ丸くなりました。
以前のように畑へ出ることもできなくなりました。
歩く速さもゆっくりになり、ときには杖をつかなければならないこともありました。
男はそんな母親の代わりに、家の仕事もするようになりました。
「母さん、今日は寒いから家にいてください」
「ありがとう」
母親は穏やかに笑いました。
二人は決して裕福ではありませんでした。
それでも、一緒に食事をし、話をしながら暮らしていました。
そんなある日のことです。
村の者が男の家へやってきました。
男は、その顔を見た瞬間に嫌な予感がしました。
「お前の母親も、ずいぶん年を取ったな」
男は何も答えませんでした。
村人は続けました。
「分かっているだろう。村の決まりだ」
男の手が止まりました。
「そろそろ、お母さんを山へ連れて行かなければならない」
男はうつむきました。
「……そんなことはできません」
「気持ちは分かる。だが決まりは決まりだ」
「母は、ずっと私を育ててくれた人です」
「それでもだ」
村人はそう言い残して帰っていきました。
男は、その夜ほとんど眠ることができませんでした。
隣の部屋から、母親の静かな寝息が聞こえています。
――母さんを山へ置いてくる?
そんなことができるはずがありません。
けれど村の決まりに逆らえば、自分まで罰を受けるかもしれません。
男は何日も悩み続けました。
母親の顔を見るたびに胸が痛みました。
けれど母親は、何も言いませんでした。
まるで息子が何に悩んでいるのか、すべて分かっているようでした。
そしてとうとう、母親を山へ連れて行く日が来ました。
まだ朝の薄暗いうちに、男は支度をしました。
外には冷たい風が吹いていました。
「母さん……」
男は母親の前にしゃがみました。
「背中へ」
母親は何も尋ねませんでした。
静かに息子の背中へおぶさりました。
男は母親を背負い、家を出ました。
村を抜け、山道へ入ります。
ざっ。
ざっ。
男の足音だけが、静かな山に響きます。
朝露に濡れた草。
木々の間から差し込む薄い光。
遠くから聞こえる鳥の声。
男は黙ったまま歩き続けました。
母親も何も言いません。
しばらくすると道は険しくなりました。
大きな石が転がり、木の根が地面から飛び出しています。
男は母親を落とさないよう、一歩ずつ慎重に登っていきました。
ざっ。
ざっ。
そのときです。
ぱきっ。
背中のほうから、小さな音がしました。
男は立ち止まりました。
「……母さん?」
「何だい?」
「今、何かした?」
「何もしていないよ」
男は不思議に思いましたが、また歩き始めました。
しばらくすると――。
ぱきっ。
また枝の折れる音がしました。
男が少し振り返ると、母親が道端の細い枝を折っていました。
そして、その枝を道へ落としました。
「母さん、何をしているの?」
「何でもないよ」
母親はそう答えました。
男は再び歩き始めました。
けれど少し進むたびに、
ぱきっ。
ぽとり。
また、
ぱきっ。
ぽとり。
母親は木の枝を折っては、山道へ落としていました。
男はとうとう足を止めました。
「母さん」
「何だい?」
「どうして枝を折っているの?」
母親は少し黙りました。
そして、息子の背中で静かに答えました。
「帰るときに、お前が道に迷わないようにだよ」
男は息をのみました。
「……帰るとき?」
「ああ」
母親は穏やかな声で言いました。
「この山は道がいくつにも分かれている」
「帰りは一人になるだろう?」
「暗くなって道が分からなくなったら大変だからね」
男は動けなくなりました。
母親は分かっていたのです。
自分がこの山へ何のために連れてこられたのか。
自分は帰ることができないことも。
それなのに母親が心配しているのは、自分のことではありませんでした。
一人で山を下りる息子が、迷わず家へ帰れるかどうか。
ただ、それだけを心配していたのです。
男の目から涙がこぼれました。
「母さん……」
「どうしたんだい?」
男はその場にしゃがみ込みました。
母親をそっと地面へ下ろします。
そして、母親の前で頭を下げました。
「ごめんなさい」
声が震えていました。
「私は……母さんをここへ置いていくつもりでした」
母親は何も言いません。
「村の決まりだから仕方がないと思おうとしました」
「でも……できません」
男は涙をぬぐいました。
「自分が山へ置いていかれるのに、母さんは私の帰り道の心配をしてくれた」
「そんな母さんを、ここへ置いて帰れるわけがありません」
母親は息子の頭へそっと手を置きました。
しわの増えた、温かな手でした。
「お前が苦しんでいたことくらい、分かっていたよ」
「母さん……」
「私はね、お前が無事に暮らしてくれれば、それでいいんだよ」
男は母親の手を握りました。
そして、はっきりと言いました。
「帰りましょう」
母親は驚きました。
「でも、村の決まりが……」
「もういいんです」
男は母親に背中を向けました。
「何があっても、母さんを置いていくことはできません」
母親を背負い、今度は山を下り始めました。
来るときに母親が落としていた枝が、道のあちこちに残っています。
一本。
また一本。
母親が息子のためにつけてくれた目印です。
男はその枝をたどりながら、迷うことなく山を下りました。
やがて二人は村へ戻りました。
村人たちは驚きました。
「どうして母親を連れて帰ってきた!」
「決まりを破るつもりか!」
男は母親の前に立ちました。
「はい」
村人たちがざわめきます。
男は続けました。
「私は決まりを破りました」
「でも、母を山へ置いてくることはできませんでした」
「母は、私よりずっと長く生きています」
「私が知らないことをたくさん知っています」
「年を取ったからといって、大切ではなくなるわけではありません」
村人たちは黙って聞いていました。
けれど、長く続いてきた決まりです。
すぐに考えを変える者ばかりではありませんでした。
「そんなことを言っても、働けなくなれば村の負担になる」
「昔からそう決まっているんだ」
そんな声も聞こえました。
男は母親を守りながら、それでも考えを変えませんでした。
そのころ、村に大きな問題が起こりました。
村人たちは集まって、何日も話し合いました。
けれど、誰もよい方法を思いつきません。
「どうしたものか……」
「困ったな」
若い者たちが頭を抱えていると、年老いた母親が静かに言いました。
「それなら、昔も似たようなことがありましたよ」
村人たちが振り返りました。
「本当か?」
「ええ」
母親は、まだ自分が若かったころのことを思い出しながら話しました。
「そのときは、こうしたものです」
村人たちは半信半疑でした。
けれど、ほかに方法もありません。
「やってみよう」
母親が教えた通りにしてみることにしました。
すると――。
それまで誰にも解決できなかった問題が、見事に解決したのです。
「できた!」
「本当だ!」
村人たちは驚きました。
そして、年老いた母親を見ました。
「こんな方法を知っていたなんて……」
母親は静かに笑いました。
「長く生きていると、昔見たことや聞いたことが、思わぬところで役に立つものですよ」
その言葉を聞き、村人たちは考え込みました。
これまで自分たちは、年を取って働けなくなった人を「役に立たない」と決めつけていました。
けれど、その人たちには、若い者がまだ知らない経験がありました。
何十年も暮らしてきた中で覚えた知恵がありました。
村人たちは集まり、もう一度話し合いました。
そしてついに――。
年老いた人を山へ置いてくるという決まりは、なくされることになりました。
その知らせを聞いた男は、母親のところへ走っていきました。
「母さん!」
「どうしたんだい、そんなに慌てて」
「もう、誰も山へ連れて行かれなくていいんです」
母親は少し驚いた顔をしてから、にっこり笑いました。
男も笑いました。
それから村では、若い者が年老いた人の話を聞く姿が見られるようになりました。
畑のこと。
山のこと。
天気のこと。
食べ物を長く保存する方法。
昔この村で起きた出来事。
年老いた人たちは、自分たちが知っていることを少しずつ若い人たちへ伝えていきました。
男も母親と一緒に暮らし続けました。
夕方になると、二人で並んでご飯を食べました。
「母さん」
「何だい?」
「あの日、山で枝を折ってくれてありがとう」
母親は笑いました。
「ずいぶん昔のことを言うんだね」
「忘れられませんよ」
家の外には、いつもの山が見えていました。
かつて母親を置いてこようと登った、あの山です。
けれど今では、その山へ年老いた人を置いてくる者は、もう誰もいませんでした。
おしまい。
登場人物
- 息子
年老いた母親を大切に思いながらも、村の決まりとの間で苦しむ男性。山道で母親の深い愛情に気づき、決まりに逆らってでも母親を守ろうと決心します。 - 母親
年を取り、歩くことも大変になっていますが、長い人生で培った知恵を持っています。自分が山へ置いていかれると分かっていても、最後まで息子の帰り道を心配する優しい女性です。 - 村人たち
年老いた人を山へ連れて行くという古い決まりの中で暮らしています。母親の知恵によって村の問題が解決したことをきっかけに、その決まりについて考え直します。
教訓
- 家族を大切に思う気持ちは、立場や年齢が変わっても失われるものではありません。
- 長い年月を生きてきた人が持つ経験や知恵には、若い世代にはない大きな価値があります。
- 昔から続いている決まりであっても、それが本当に正しいのかを考え直すことが必要な場合があります。
親子で話したいポイント
- お母さんは、どうして山道に枝を落としていたのかな?
- 枝を折っていた理由を知ったとき、息子はどんな気持ちになったと思う?
- おじいちゃんやおばあちゃん、家族から教えてもらったことには何がある?
- 昔から続いている決まりでも、変えたほうがよいことはあると思う?
- 家族が困っているとき、自分にはどんなことができるかな?
保育士向け活用ポイント
家族の年齢や形にかかわらず、「自分を大切にしてくれている人」「自分が大切にしたい人」という視点で話を広げると、さまざまな家庭環境の子どもが参加しやすくなります。
「家族への思いやり」「高齢者への尊敬」「経験や知恵の価値」を考える読み聞かせとして活用できます。
母親が枝を折りながら道に残していく場面は、この物語の中心となる場面です。「どうして枝を折っていると思う?」と途中で問いかけることで、子どもたちが登場人物の気持ちを考える活動につなげられます。
敬老の日や祖父母交流の時期には、「おじいちゃん・おばあちゃんから教えてもらったこと」を出し合う活動へ発展させることができます。
年長児では、「決まりは必ず守らなければならないのか」「もし決まりがおかしいと思ったらどうするか」など、少し深い対話の題材としても活用できます。


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