蜘蛛の糸(くものいと)

昔話

あらすじ

むかしむかし、お釈迦さまが極楽の蓮池から、はるか下にある地獄を見ていました。

そこには、生きていた頃に多くの悪いことをした、かんだたという男が苦しんでいました。

けれど、お釈迦さまは、かんだたがたった一度だけ見せた優しさを覚えていました。

森で小さな蜘蛛を踏みつけそうになった時、その命を思い、逃がしてやったことがあったのです。

お釈迦さまは、その一度の優しさを信じ、地獄へ一本の蜘蛛の糸を垂らします。

細い糸を頼りに必死に登り始めるかんだた。

しかし、下から大勢の人々が同じ糸を登ってくるのを見た時、かんだたの心にある思いが浮かんでしまいます。

本文

むかしむかし。

ある日の朝のことです。

極楽では、美しい蓮の花が一面に咲いていました。

白や桃色の花びらが朝の光を受け、きらきらと輝いています。

澄んだ池の水には青い空が映り、どこからともなく心地よい花の香りが漂っていました。

お釈迦さまは、その蓮池のほとりをゆっくりと歩いていました。

やがて池のそばで足を止め、水面をのぞき込みました。

透き通った水のずっとずっと下。

極楽とはまるで違う、暗い世界が見えました。

そこは地獄でした。

光の届かない暗闇。

どこまでも続いているような深い底。

その中で、たくさんの人々が苦しんでいました。

お釈迦さまは静かに、その様子を見つめました。

すると、その中に見覚えのある男を見つけました。

男の名前は、かんだた。

かんだたは、生きていた頃にたくさんの悪いことをしてきた男でした。

人の物を盗んだこともありました。

人をだましたこともありました。

自分のためなら、誰かが困っても気にしない。

そんな生き方をしてきたのです。

けれど――。

お釈迦さまは、かんだたが生きていた頃にした、たった一つの優しい行いを覚えていました。

ある日のこと。

かんだたが森の中を歩いていました。

木々の間から日の光が差し込み、足元には落ち葉が積もっています。

かんだたがその上を歩いていると、小さな蜘蛛が一匹、道を横切っていました。

「なんだ、蜘蛛か。」

かんだたは、そのまま踏みつけようと足を上げました。

けれど――。

ふと、足を止めました。

蜘蛛は何も知らず、小さな足を動かしながら一生懸命に歩いています。

かんだたは蜘蛛を見下ろしました。

「こんな小さなやつでも、命はあるんだよな。」

そうつぶやくと、上げていた足を別の場所へ下ろしました。

「わざわざ殺すこともないか。」

蜘蛛はそのまま草むらの中へ入っていきました。

かんだたにとっては、すぐに忘れてしまうほど小さな出来事だったかもしれません。

けれど、お釈迦さまはそのことを覚えていました。

「かんだたにも、一度だけ小さな命を思いやったことがあった。」

お釈迦さまは、しばらく考えました。

そして静かに言いました。

「その時の心を、もう一度信じてみよう。」

ちょうどその時、一枚の蓮の葉の上を、一匹の蜘蛛が歩いていました。

細い銀色の糸が、朝日にきらりと光っています。

お釈迦さまは、その蜘蛛の糸をそっと手に取りました。

そして――。

極楽から、はるか下の地獄へ向かって垂らしました。

するすると。

するすると。

細い蜘蛛の糸は、暗闇の中をどこまでも下りていきます。

極楽の光を受けた糸だけが、闇の中でかすかに銀色に輝いていました。

地獄にいたかんだたは、その光に気づきました。

「ん?」

顔を上げます。

暗闇のずっと上から、一本の細い糸が垂れていました。

「なんだ、あれは……。」

かんだたは目を凝らしました。

蜘蛛の糸です。

あまりにも細く、少し力を入れただけでも切れてしまいそうに見えます。

けれど、その糸は確かに、かんだたのすぐ近くまで伸びていました。

かんだたの目が大きく開きました。

「これを登れば……。」

もう一度、上を見ます。

糸の先は見えません。

暗闇のはるか向こうへ続いています。

「これを登れば、ここから出られるかもしれない!」

かんだたは急いで蜘蛛の糸につかまりました。

そして、一生懸命に登り始めました。

よいしょ。

よいしょ。

一本の細い糸だけを頼りに、少しずつ上へ登っていきます。

けれど、地獄の底はあまりにも深いのです。

登っても。

登っても。

まだ上は見えません。

かんだたの腕はだんだん重くなってきました。

「はあ……はあ……。」

額から汗が流れます。

「まだか……。」

それでも、かんだたは登り続けました。

ここで手を離せば、また暗い底へ落ちてしまいます。

「もう少しだ。」

自分に言い聞かせます。

「もっと上へ……。」

どれほど登ったでしょう。

かんだたは疲れ果て、蜘蛛の糸につかまったまま少し休むことにしました。

「ふう……。」

そして、何気なく下を見ました。

はるか下には、暗い地獄の底が小さく見えています。

「ずいぶん登ったぞ。」

かんだたはうれしくなりました。

「このまま行けば、本当に抜け出せるかもしれない。」

その時です。

暗闇の中で、何かが動いていることに気づきました。

「……なんだ?」

かんだたは目を細めました。

蜘蛛の糸の下の方に、黒い影が見えます。

一つではありません。

一つ。

二つ。

三つ。

さらにその下にも。

ぞろぞろ。

ぞろぞろ。

たくさんの人々が、かんだたと同じ蜘蛛の糸につかまり、登ってきていたのです。

「な……。」

かんだたの顔から笑みが消えました。

下から次々と人が登ってきます。

十人。

二十人。

それどころではありません。

暗い底から、数え切れないほどの人々が、一本の蜘蛛の糸を頼りに登ってきています。

細い糸が、かすかに揺れました。

ゆら……。

ゆら……。

かんだたは蜘蛛の糸を見ました。

こんなに細い糸です。

自分一人を支えるだけでも不思議なくらいなのに、こんなに大勢がつかまったら――。

「切れる……。」

かんだたの胸に恐怖が広がりました。

「こんなに登ってきたら、糸が切れてしまう!」

かんだたは下に向かって叫びました。

「おい!」

人々は登り続けています。

「登ってくるな!」

かんだたの声が暗闇に響きました。

「この蜘蛛の糸は俺のものだ!」

「俺が見つけたんだ!」

「お前たちは離れろ!」

その瞬間――。

ぴんっ。

かんだたのすぐ上で、蜘蛛の糸が震えました。

「え?」

かんだたは顔を上げました。

細い銀色の糸が、一瞬だけ光りました。

そして――。

ぷつん。

糸が切れました。

「あっ……。」

かんだたの体が宙に浮きました。

次の瞬間。

「あああああ――!」

かんだたは暗闇の中へ落ちていきました。

下へ。

下へ。

蜘蛛の糸から手を伸ばしても、もう届きません。

さっきまで少しずつ遠ざかっていた地獄の底が、再び近づいてきます。

やがて、かんだたの姿は深い暗闇の中へ消えていきました。

極楽では――。

お釈迦さまが、蓮池のほとりに立っていました。

何も言わず、静かに水面を見つめています。

かんだたは、小さな蜘蛛の命を助けたことがありました。

だからこそ、一本の糸が差し伸べられました。

けれど、ほかの人たちも同じように助かろうとしている姿を見た時、かんだたは、

「自分だけが助かりたい。」

と思ってしまったのです。

お釈迦さまは悲しそうに目を伏せました。

やがて、何事もなかったかのように、また蓮池のほとりをゆっくりと歩き始めました。

極楽では、もう昼が近づいていました。

白い蓮の花が静かに開き、その上では小さな蜘蛛が一本の細い糸を張っていました。

朝の光を受けた蜘蛛の糸は、きらりと輝いていました。

おしまい。

登場人物

  • かんだた
    生きていた頃に多くの悪いことをした男。たった一度だけ、小さな蜘蛛の命を助けたことから、地獄へ垂らされた蜘蛛の糸を登る機会を与えられます。
  • お釈迦さま
    かんだたが一度だけ見せた優しさを覚えており、その心を信じて蜘蛛の糸を地獄へ垂らします。
  • 蜘蛛
    かんだたが生前に命を助けた小さな生き物。極楽では、その蜘蛛の糸がかんだたに差し伸べられます。
  • 地獄の人々
    かんだたと同じように蜘蛛の糸を見つけ、地獄から抜け出そうと後を追って登ってきます。

教訓

  • どんなに小さな優しさでも、誰かの命を思いやる行動には意味がある。
  • 自分だけが助かればよいという気持ちは、せっかくの機会を失うことにつながる場合がある。
  • 苦しい時ほど、自分だけでなく周りの人にも目を向けることが大切。

親子で話したいポイント

  • かんだたは、どうして蜘蛛を踏まずに逃がしてあげたのかな?
  • お釈迦さまは、どうしてかんだたに蜘蛛の糸を垂らしたのだろう?
  • たくさんの人が登ってくるのを見た時、かんだたはどんな気持ちだったと思う?
  • もし自分がかんだたと同じように蜘蛛の糸を登っていたら、どうしたと思う?
  • 「自分だけ」ではなく「みんなで」という気持ちは、どんな時に必要だろう?

保育士向け活用ポイント

  • 「自分だけがよければいいのか」「困っている時にほかの人のことまで考えられるか」といった思いやりについて考える教材として活用できます。
  • かんだたが蜘蛛を助ける場面と、ほかの人を追い払おうとする場面を比べることで、同じ人物の中にも優しい気持ちと自分本位な気持ちの両方があることを考えられます。
  • 年長児では、「自分だったらどうする?」と問いかけることで、答えが一つではない対話活動につなげられます。
  • 蜘蛛の糸をみんなで登る場面から、順番や譲り合い、助け合いなど、集団生活の中で必要な行動について話し合う導入にも活用できます。

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