あらすじ
むかしむかし、山と町をつなぐ街道沿いに、おいしいそばで評判の小さなそば屋がありました。
旅人や町の人たちでにぎわう店でしたが、あるころから、店じまいのあとに残しておいたそばが少しずつ減るようになります。
「泥棒でも入っているのだろうか。」
不思議に思った主人が、夜の店に隠れて見張っていると、そっと戸を開けて入ってきたのは、なんと一匹のたぬきでした。
山で食べ物を見つけられず、お腹を空かせていたたぬき。
事情を知った主人は怒るのではなく、温かいそばを一杯作ってやります。
一杯のそばから始まった、食いしん坊なたぬきと人情味あふれるそば屋の主人との、心温まるお話です。
本文
むかしむかし、山と町をつなぐ街道沿いに、小さなそば屋がありました。
大きな店ではありません。
木でできた古い店の前には小さなのれんが下がり、昼になると、そばをゆでる湯気とだしのいい香りが街道まで漂っていました。
店を切り盛りしているのは、働き者の主人と奥さんです。
主人は毎朝まだ暗いうちから起きて、そばを打ちます。
こねて、のばして、細く切る。
長いあいだそばを打ってきた主人の手つきは見事なものでした。
「ここのそばを食べると、また旅を頑張ろうって気になるよ。」
「この町で一番うまいそばだ。」
そんな評判を聞いて、町の人だけでなく、街道を行き来する旅人たちも店を訪れました。
「いらっしゃい!」
主人の元気な声が響きます。
奥さんは出来上がったそばを運び、空いた器を片づけます。
毎日忙しくも、二人は仲良く店を続けていました。
そんなある日のことです。
いつものように最後のお客さんを見送り、主人と奥さんは店じまいをしました。
「今日もよく働いたな。」
「ええ。明日も早いから、そろそろ休みましょう。」
主人が残ったそばを片づけようと棚を見ると、
「あれ?」
何かがおかしいことに気づきました。
「どうしたんです?」
「いや……。」
主人は棚をのぞき込みました。
「残しておいたそばが、少し減っているような気がするんだ。」
奥さんも見てみましたが、はっきりとはわかりません。
「忙しかったから、勘違いじゃありませんか?」
「そうかなあ。」
主人もその日は、それ以上気にしませんでした。
ところが次の日。
店じまいをして棚を見ると、やはりそばが減っています。
そして、その次の日も。
さらに、その次の日も。
ほんの少しずつですが、確かにそばがなくなっているのです。
「これはおかしいぞ。」
主人は腕を組みました。
「誰かが勝手に食べているんじゃないか?」
奥さんも心配そうな顔をしました。
「泥棒でしょうか。」
「だが、そば以外は何もなくなっていない。」
お金にも手をつけられていません。
器もそのままです。
なくなるのは、なぜかそばだけ。
「よし。」
主人は決めました。
「今夜、わしが店に残って見張ってみよう。」
その夜。
店じまいを終えると、主人は明かりを消し、店の奥に身を隠しました。
奥さんも家の方で息をひそめています。
しばらくすると、町は静かになりました。
昼間は旅人たちの声や馬の足音でにぎわっていた街道も、夜になるとまるで別の場所のようです。
遠くの山から、
ホウ、ホウ。
ふくろうの声が聞こえてきます。
風が吹くと、店先ののれんが、
ぱた……ぱた……。
小さな音を立てました。
主人はじっと待ちました。
けれど、誰も来ません。
「やっぱり、今日は来ないのか……。」
そう思い始めたころです。
月が高く昇り、店の前を青白く照らしていました。
そのとき――。
カタ……。
戸が、ほんの少し動きました。
主人は息を止めました。
カタカタ……。
ゆっくりと戸が開いていきます。
誰かが入ってきました。
けれど、人の姿ではありません。
とことこ。
とことこ。
月明かりの中に現れたのは、一匹のたぬきでした。
「たぬき……?」
主人は目を丸くしました。
たぬきは立ち止まり、辺りをきょろきょろと見回しています。
誰もいないことを確かめると、そろり、そろりと棚へ近づいていきました。
そして、残してあったそばを見つけると、
「……あった。」
小さな声でつぶやきました。
たぬきはうれしそうにそばへ顔を近づけます。
つるつる。
つるつるつる。
なんともおいしそうに食べ始めました。
主人はしばらくあっけにとられていましたが、我に返ると店の奥から飛び出しました。
「こら!」
「うわあっ!」
たぬきは驚いて飛び上がりました。
慌てて逃げようとしましたが、足がもつれてころんと転がってしまいます。
「毎晩そばを食べていたのは、お前だったのか!」
主人が言うと、たぬきは耳を伏せました。
そして――。
「ご、ごめんなさい!」
主人は今度こそ飛び上がりそうになりました。
「しゃべった!」
たぬきは申し訳なさそうに、小さくなっています。
「本当にごめんなさい。」
「山で食べ物が見つからなくなってしまって……。」
主人は黙ってたぬきを見ました。
「それで、うちのそばを?」
「はい……。」
たぬきはうつむきました。
「いい匂いがして、ここまで来たんです。」
「でも、私にはお金がありません。」
「お腹が空いて、どうしても我慢できなくて……。」
「最初は少しだけならと思ったんです。」
「でも、とてもおいしくて……。」
主人は腕を組みました。
勝手に店へ入り、そばを食べていたのです。
怒られても仕方がありません。
たぬきは震えながら、主人の言葉を待っていました。
しばらくして主人が言いました。
「そうか。」
たぬきがおそるおそる顔を上げます。
「お腹が空いていたんだな。」
「……はい。」
すると主人は、たぬきを追い出すどころか、かまどへ向かいました。
「おい、お前さん。」
奥さんが顔を出しました。
「湯を沸かしてくれ。」
「え?」
「せっかく食べるなら、残りものじゃなくて、ちゃんとしたそばを食わせてやろう。」
たぬきは目を丸くしました。
主人は新しいそばをゆで始めました。
ぐつぐつと湯が沸き、白い湯気が立ち上ります。
奥さんもだしを温めました。
やがて、店いっぱいにおいしそうな香りが広がりました。
主人は出来上がったそばを、たぬきの前へ置きました。
「ほら。」
「できたぞ。」
たぬきは器と主人を交互に見ました。
「これ……。」
「食べていいんですか?」
「もちろんだ。」
「ただし、今度から勝手に食べるんじゃないぞ。」
「食べたければ、ちゃんと戸をたたけ。」
たぬきの顔がぱっと明るくなりました。
「はい!」
「ありがとうございます!」
たぬきはそばを食べ始めました。
つるつる。
つるつるつる。
「おいしい!」
あまりに幸せそうに食べるので、主人も奥さんも思わず笑ってしまいました。
「そんなに急いだら、のどにつまるぞ。」
「だって、本当においしいんです!」
その夜、たぬきは器をきれいに空にすると、何度も頭を下げて山へ帰っていきました。
次の日の夜。
店じまいをしていると、
とんとん。
戸をたたく音がしました。
主人が開けると、あのたぬきが立っていました。
その手には、小さなきのこをいくつか抱えています。
「昨日のお礼です。」
「山で見つけました。」
主人は笑いました。
「そんなこと、気にしなくていいのに。」
「いいえ。」
たぬきは真剣です。
「お礼がしたかったんです。」
次の日には山菜。
また次の日には栗。
たぬきは山で見つけたものを、少しずつ持ってくるようになりました。
主人と奥さんも、
「じゃあ今日は、きのこそばにしようか。」
「栗はご飯に入れよう。」
と、たぬきの持ってきたものをありがたく受け取りました。
そんな日が続いたある夜、主人が言いました。
「なあ、たぬき。」
「はい?」
「毎晩お礼を持ってこなくてもいい。」
たぬきは少し困った顔をしました。
「でも……。」
「その代わりと言ってはなんだが、夜だけ店を手伝ってくれないか?」
「私がですか?」
たぬきは目を丸くしました。
「ああ。」
「掃除や片づけを手伝ってくれると助かる。」
「それなら、いくらでも!」
たぬきはうれしそうに答えました。
それから、夜になるとたぬきはそば屋へやって来るようになりました。
小さな箒を持って、
さっさっさっ。
床を掃きます。
机をきれいに拭き、
椅子を並べ、
店先に落ちている葉っぱまで集めました。
ときどき、箒の柄にしっぽを引っかけて、
「わっ!」
ころんと転ぶこともあります。
そんなときは、主人も奥さんも大笑いしました。
「まだまだ修業が足りんな。」
「明日はもっと上手にやります!」
夜のそば屋には、いつの間にか三人の笑い声が響くようになりました。
朝になって町の人たちが店へ来ると、いつも店はぴかぴかです。
「この店は、いつ来てもきれいだなあ。」
「夜中に誰か掃除しているんじゃないか?」
主人は、
「さあ、どうだろうね。」
と笑うだけでした。
やがて寒い季節が終わり、春がやって来ました。
山の雪がとけ、若い草が顔を出します。
木々にも新しい葉が芽吹き、山には食べ物が戻ってきました。
ある夜。
いつものように店を掃除したあと、たぬきが主人に言いました。
「ご主人。」
「どうした?」
「そろそろ山へ帰ろうと思います。」
主人の手が止まりました。
「そうか……。」
たぬきはうなずきました。
「山にも食べ物が戻ってきました。」
「仲間たちも待っています。」
奥さんも少し寂しそうな顔をしました。
毎晩来ていたたぬきがいなくなると思うと、店が急に静かになってしまうような気がしました。
けれど主人は笑って言いました。
「わかった。」
「山へ帰るのが一番だ。」
そして、たぬきの頭をぽんと優しくなでました。
「でも、腹が減ったらいつでも来い。」
「そばの一杯くらい、いつでも食わせてやる。」
たぬきは目を潤ませました。
「ありがとうございます。」
「ここで食べたそばの味は、ずっと忘れません。」
たぬきは主人と奥さんに深く頭を下げました。
そして、月明かりの街道をとことこと歩き、山へ帰っていきました。
主人と奥さんは、その姿が見えなくなるまで見送っていました。
それからしばらくたった、満月の夜のことです。
店じまいをした主人が戸を閉めようとすると、
「あれ?」
店の前に何かが置かれています。
大きな栗と、立派なきのこでした。
主人はそれを見ると、にやりと笑いました。
「また来たな。」
奥さんも外へ出てきました。
「ふふふ。元気にしているみたいですね。」
二人が山の方を見ると、月明かりの中で草むらがかすかに揺れました。
そして遠くから、
ころころころ……。
楽しそうなたぬきの笑い声が聞こえてきました。
主人と奥さんは顔を見合わせ、そっと笑いました。
それからも満月の夜になると、ときどき店先には栗やきのこが置かれていたそうです。
おしまい。
登場人物
- そば屋の主人
街道沿いで評判のそば屋を営む主人。勝手にそばを食べていたたぬきを捕まえますが、事情を知ると追い払わず、温かいそばを作ってあげる人情味あふれる人物です。 - 奥さん
主人と一緒にそば屋を切り盛りする働き者。たぬきを温かく迎え、主人とともに見守ります。 - たぬき
山で食べ物が見つからず、空腹に耐えきれずそば屋へ忍び込んでいた化けだぬき。主人の優しさに触れ、山の幸を届けたり、店を手伝ったりして感謝を伝えます。 - 町の人たち
そば屋を愛する常連客や旅人たち。毎朝きれいになっている店を不思議に思っています。
教訓
- 相手の行動だけを見るのではなく、その背景や事情を知ろうとすることが大切。
- 誰かへの優しさが、新しいつながりや信頼を生むことがある。
- 「ありがとう」という気持ちは、言葉だけでなく行動でも伝えられる。
- 助けてもらった人が、今度は自分にできることで誰かを助けることも恩返しの一つ。
親子で話したいポイント
- たぬきは、どうしてそば屋のそばを勝手に食べてしまったのかな?
- 主人は、どうしてたぬきを追い出さずに新しいそばを作ってあげたのかな?
- たぬきは、どんな方法で「ありがとう」の気持ちを伝えた?
- 主人が「勝手に食べるのではなく、戸をたたけ」と言ったのはどうしてだと思う?
- 自分が誰かに助けてもらったら、どんな方法で「ありがとう」を伝えたい?
保育士向け活用ポイント
- 相手の事情を考える題材に
「勝手にそばを食べる」という行動だけを見ると困った行動ですが、たぬきには「山で食べ物が見つからず、お腹が空いていた」という事情があります。「どうしてそうしたのかな?」と背景を考える活動につなげられます。 - 思いやりとルールを一緒に考える
主人はたぬきにそばを食べさせますが、同時に「今度から勝手に食べず、戸をたたくように」と伝えています。相手の気持ちを受け止めることと、守るべき約束を伝えることの両方を考えられる題材です。 - 感謝の伝え方を考える活動に
たぬきは山菜や栗を届けたり、店の掃除を手伝ったりして感謝を伝えます。「ありがとうには、どんな伝え方がある?」と子どもたちと話し合うことができます。 - 食育や地域のお店をテーマに
そば作りやそば屋の仕事、きのこ・山菜・栗などの山の食べ物が登場するため、食育活動や地域のお店について学ぶ導入としても活用しやすい作品です。


コメント